母の最期の日々その1

実家問題
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今日は母の最期の日々を備忘録として書き残しておこうと思います。しばらくの間お付き合いくださいませ。



お盆の頃、高熱を出していたので、いよいよ父がお迎えに来たのかも?とヤキモキしていましたが、8月下旬にはお医者様や看護師さんたちのおかげで持ち直していました。

9月は前半から中盤くらいまでは熱も出ず尿の色もきれいで、人のこと叩いたりつねったりしていて元気でした。

ところが9月の終わりに蜂窩織炎という皮膚炎が悪化し、高熱も出て徐々に弱ってきていました。

私は10月初めにどうしても富山に戻らねばならず、後ろ髪をひかれながらも内心富山でホッと一息、1週間ほど過ごしました。施設からの電話もなく、安心してまた実家に戻ってきました。

10/11、久しぶりに母の施設に行くと、私が富山で楽しく過ごしていた間に、母がさらにやせ細り骨と皮だけになって頬もげっそりこけ、体中の水分が抜けてしまい、しわしわになっていました。

母を10日近くもほったらかしにしてたことを後悔し、いよいよ近いかもしれないなと思い始めました。ちょうどクリニックから院長先生も来てらして『そろそろお父さんが迎えに来はるんかもね。それがいつなのかは誰にも分からんけどね』と言われました。

覚悟を決めて毎日弱っていく母を見守り続けました。蜂窩織炎の炎症部分から出る滲出液が2000㏄にもなり、尿の量が極端に少なく色も茶色でしたので腎臓機能が弱ってきているとのことでした。

点滴の量を増やし、最期の数日は2000㏄も入れていましたが、私の見解ではそれがさらに母を苦しめていたんじゃないかなと思いました。もう、点滴はやめた方がいいんじゃないかと兄にも言いましたが、兄はまだ諦めがつかないようで、『目がぎろぎろ動いている、生きようとしている』と言うので、点滴を止めるという選択はできませんでした。

今回切実に感じていることは、自分の最期は延命治療しなくていいと家族には毎年言い続けた方が良いということです。言っておけば家族は判断しやすいし、毎年言い続けることで決心できるんじゃないかなと思います。『ああ、毎年のように言い続けてたんだから願いを叶えてあげよう』と思ってもらえるくらいになればいいなぁと思うんですがねぇ。



長くなるので今日のところはここまでにします。

それでは今日もありがとうございました(@^^)/~~~

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